桜鱒太郎のセパリスト~もっと身近に、生物多様性。~第3回
セパリスト003
東京都
アニメ監督
河森正治
Kawamori Shoji
文/桜鱒太郎 Sakura Masutaro
原発の危険性を予言したアニメ
「原子炉はリスクが大きすぎる。建設コストや核廃棄物の保管を考えればほとんど採算がとれない」。「バブルがはじける前の、この国が一番豊かといわれた頃の電力消費量に戻すだけで、原発を一つ残らず無くせるのに」。「それとも真夏の2週間、冷房をガマンするか。でもたったそれだけのことが私たちにはできない」。
原子炉建屋、死の町‥‥。最近いつもニュースで聞いている言葉が、第一話から登場するアニメーション。じつは2001年の製作の『地球少女アルジュナ』という作品です。樹奈という主人公の少女が、地球を守るために怪物ラージャと闘うストーリーですが、もう10年前の作品というのに、まるで最近作ったかのような内容。
原発のほかにも自然農法、水中出産をとりあげるなど様々な社会問題をテーマにしており、描写力もさることながら、その先見性には圧倒されます。エンターテインメント領域のアニメで、これだけ問題意識が強く、内容の濃いアニメは今まであまりないのではないでしょうか。
「もうかなり前のことですが、中国の少数民族を訪れたとき、子供たちの目の輝きに驚かされました。テレビがない地域の子供たちはこんなにも目の輝きが違うのかと。環境問題も原発の問題も、最初から描きたかったというより、そういうことを感覚的にダイレクトに感じられる人がいたら、何を見るんだろう? というのが最初の動機です。そういう視点で見直してみると、今の世の中はマズイんじゃない? と思ったわけです」と語るのは原作・監督の河森正治さん。
「今、この星の上に生きる奇跡」というのがこの作品のキャッチコピーですが、たしかに私たちの生活は奇跡のような連続の中で成り立っていると思わずにいられません。圧倒的な自然のパワーで一瞬にして町は壊滅し、あれだけ安全と言っていた原発が「想定外」の事故を起こして多くの命を危険にさらす。私たちは3.11を経て、たまたま地球の上で奇跡的に生きていることを知りました。今のままでは全く持続不可能になっている現状の中、私たちはこの機会に生き方そのものを変え、新しい日本を、そして世界を再構築する時期に来ているのだと思います。
持続可能な社会を形成するためにも、自然との共生、生物多様性の実現は急務ですが、そのために私たちは何をしたらいいのか? どのように行動したらいいのか? 今、「次の行動」が求められていると思います。
先住民族のトレーニング
まず、私たちの中にある「鋭敏な感覚」を見いだす、磨き直すことが大事と河森さんは言います。私たちが持つ感覚は本来素晴らしいものであり、それを研ぎすますことで真実が見えてくる。そしてその感覚で自然と触れ合っていると、生活実感として自然と共生せざるを得なくなってくるのではないかと。言葉で考えることではないということです。
『地球少女アルジュナ』を作るにあたって、河森さんは自然農を実践するカリスマ農家、川口由一さんをはじめ、世界中を取材してまわりましたが、たどりついたのがその「感覚」を取り戻すことでした。
「インドに行ったときのこと。当時90歳くらいの名医(アーユルヴェーダ)に診療してもらったのですが、10~20秒間、脈診しただけで、前の日に食べたものから人間ドックで言われたことまで全部言われてしまうのです。4~5分診ると子供の頃からの病歴まで分かる」と河森さん。実際、アーユルヴェーダの無料診療所には何百人もの人が順番待ちをしていて、診療した後、クスリを買えない人には食事療法で何を食べたらいいかを紙に書いて渡していたそうです。人の感覚がいかにすごいか。そしてそれが現実に役立っているという事実。
では、感覚を鋭くするにはどうしたらいいのでしょう? 河森さんは作品制作後も調査を続けました。世の中がこんなにおかしくなってしまった本当の問題点はどこなのか? 人間のルーツは何だったのか? 本来人間はどう生きればいいのか? そして辿り着いた答えが、“先住民族”だったのです。彼らの狩猟採集民族としての智恵に、その謎は隠されていました。
彼らの狩りの仕方は、自分を変身させることでした。究極は自分が狩られている獲物そのものになるといった発想の転換です。自分が獲物になる。獲物になって感じ、考えるということです。
「人間の側から自然を見るのではなく、破壊されている大地になれるか? 切られている木になれるか? 先住民族には木になるトレーニングや、動物になるトレーニングがあるのです。逆にいえば、先住民族をもってしてもトレーニングしないと誰にもなれない。人間の限界みたいな部分も再確認しました」と河森さん。
『地球少女アルジュナ』の中でも、主人公の樹奈が稲になって田んぼに立つシーンが登場します。人間が自然に同化し、自然そのものになって自然を考える。大地を考える。風を感じる。そして、大地や草たちや虫たちの痛みや叫びを聞くのです。生物多様性というテーマを人間の視点で見るのではなく、自然の視点で考える。生きものたちの視点で考える。このアニメの世界観はそこにあります。
自分で考える姿勢について
さて、感覚を鋭くするためのトレーニングですが、これは一つの目的に集中するのでなく、いかに多様性を感じるかということになります。
「森に行っても、昆虫採集だけで終わるのではなく、そこに生きる植物も鳥も、魚も昆虫も土もすべて関連づけて実感できるかということです。先住民族は、森の全存在に対して注意を向ける練習をしています。一つひとつのいのちを確認して、全部つなげる練習があるんです。最初に個別化が始まってしまうと難しいですね」。
河森さんは自然に触れて多様性を感じるためには、ある一定の年齢までの体験が大切だと言います。たとえば、6歳までとか。
「その年齢までは文字を習わない方がいいのかもしれません。文字を習うといろいろなことを細分化し始めてしまうから。観察力に関しても、小さなときに文字を習っていない子の方が観察力があるんです。学校教育を批判したくはないのですが、今の教育が自然から隔離され、人工的に収集された知識を先に教えようというシステムになってしまっているので、効率優
先になり、そうなると失われる感覚が多いと思うんです。先住民族の教育に見られるように、本来自然には視覚や聴覚や触覚を鍛えるシステムが多くあった。そうしないと生き残れなかったからです」。
河森さんは、ご自身のお子様をフリースクールに通わせていますが、フリースクールを見学して、何度も驚いたと言います。その学校では、時間割もなく、その日何が起きているかで授業内容を決めていくのだとか。または子供が自主的に発言して、それが授業になると。たとえば、子供同士がケンカしても、怒るとか叱るとかでなく、先生は事実だけを伝えます。「殴ると痛いよ」と言って去って行く。そうすれば子供が自分で考えるからです。
「子供たちが歌とか踊りを習う授業を見ていたんですが、親があまり見ないように言われたんです。親が他の子と比較して見ていることが、子供に伝わってしまうからだと。自分の子を見て、他の子と比べている目を持ち込まないでくださいと」。
また、乳児に対する教育も徹底している。赤ちゃんがいる部屋はバリアフリーでなく、あえて段差がある部屋があり、その段差に落ちて、落ちそうになったので助けようとすると、「だめだめ。落としてあげないと」と先生。座布団をひいたところに落ちることで段差を知り、段差を手で触ることによって高さを知るからです。学習していたのです。普通、赤ん坊が落ちそうになると助けてしまいますが、そういう能力を持つ力を摘み取っていることにもなります。ただ、どこから手を差し伸べ、どこまで大丈夫かの判断感覚を養うが難しいと河森さん。
そこには祈りしかあり得ない
『地球少女アルジュナ』では、水中出産についても詳しく描かれています。私たちは通常、病院で楽品や器具の力を借りて産まれてきますが、そんな医療の力を借りない自然分娩のことです。これは、取材で知り合ったフランスの人々が水中出産のビデオや写真を見せてくれたのだとか。
「満月の夜に地中海で、お母さんが一人で青い海の中に入り、水中で産んだ子供を取り上げているんです。そのシーンが神秘的で忘れられなくて作品中で再現しました。しかも、カルフォルニアでは、出産が始まるとイルカが寄って来るという話も聞きました。イルカは水中にいる赤ん坊をタイミングよく、海面へ押し上げてくれるそうです」。
さらに、河森さんは続けます。「私の子供は2人とも水中で、立会をしました。1人目のときは、プールの水中でヘソの緒をつなげたまま、水面ごしにこっちを見上げて私を見るんです。目が合うんですよ。これは感動的でした。また、作品の中でも表現していますが、水中出産の子はほとんど泣かないんです。元気がないから泣かないのではなく、病院の子供は不安だから泣くようです。私の子の場合は実際抱き上げると“フギャ”と羊水を吐き出すくらいでした」。
水中出産した子供はあまり人見知りをしないと言います。人生の一番始めの時点で、自分自身で自主的に産まれてくるのか、それとも病院で引っぱり出されて産まれてくるのか、もしかしたらその違いは大きいのかもしれません。そして、先住民族の教育やフリースクールと同じく、感受性にあふれた子供時代に、大自然の中で感覚的に生きていくことが、生物多様性を皮膚感覚で学ぶことにつながるのかもしれません。河森さんも幼少時代、横浜市の保土ヶ谷区で育ちました。田んぼが広がる里山の風景が残る場所です。無意識のうちにそんな自然に触れていたから、大人になってもその感覚が活きているのかもしれません。
ところで、取材でアマゾンやボルネオに行った河森さん。熱帯雨林の多様性に驚きつつも、ジャングルの表土は以外にもろく、一度土が流出したら戻りにくいことも知ったとか。そして日本に帰って、夏の雑木林の植生を見るなり、日本の自然がいかに凄いかを実感したのです。
「なんだ、日本のこの植生の強さは! ということです。どんな空き地も1~2年すると雑草で茂っていく。これだけ回復力が強い自然だから、自然を大切にするという思考が逆に弱くなるのかもしれません」。
感覚を鋭くすると、自然に畏敬の念が生まれ、自然への共生や生物多様性の実現への第一歩になります。
「そういう感覚が研ぎすまされると、あまりにも自然が美しいということが分かり、あまりにも自然がよく形成され神々しいことに気づかされます。自然崇拝のアミニズムに近いのですが、感受性があって、自然を正しく見て感じることができれば、“そこには祈りしかあり得ない”ということです。“祈りなさい”ではないのです」。
アニメーションの可能性
さて、生物多様性の概念は、多くの人に知ってもらう必要があるのに、まだまだ言葉自体も聞き慣れない、その概念を伝えることも難しいというのも事実です。CEPAジャパンでも、環境教育を通して、あるいは映像や写真を通して、できるだけ分かりやすく生物多様性を伝えようと活動していますが、アニメーションというメディアの底力に注目しています。
アニメは簡単に国境を超えれば、世代も超えてしまう、日本が世界に誇るツールだからです。たとえば、アジアの貧しい村に住む子供たち。彼らに生物多様性を伝えられるツールがあるとしたら、それは難しい言葉を使わないシンプルなもので、誰にでも分かりやすい内容である必要があります。
『地球少女アルジュナ』の中で、主人公の樹奈が自然農法の畑を走りまわり、「食べものはみんな私なんや。カボチャも、トマトも、キャベツもみんな未来の私らなんや」と覚醒していく場面があります。カボチャやトマトに主人公の顔が映る観念的な描写は、アニメならではの表現です。自分と他者が同じものであるという寛容さを伝え、農薬も肥料も使わず、草や虫を殺すこともなく、環境に一切負担をかけない自然農法を紹介することで、生物多様性の重要さを伝える感動的なシーンなのですが、それがほんの数分の映像で語られていることに驚きます。
「大きなテーマや概念はアニメーションの方がわりと伝えやすく、実写のほうが逆にウソっぽく感じてしまいます。最近思うのは、アニメはいい意味で神話として語りやすい点です。もともとあり得ないことが起きて、画に描かれた生きてないものが生きているように感じられる。そのしくみそのものが神話的な構造を持っていて、ふだんの感覚でないものを描きやすいのだと思います」と河森さん。
たとえば腐植した土に虫の死骸が折重なって、土が形成されていくシーンがありますが、これを実写にするとただ単に気持ち悪いシーンになりかねないのだとか。生物多様性という分かりにくい概念を、実際にはありえないアングルで紹介し、様々な生きものが関係し、生態系を成り立たせていることを、イメージとして見せる技術は、まさにアニメでしか伝えられない方法なのです。
人類が持続可能な社会を実現して、生存し続けることができるのか? それは次の世代を生きる子供たちにかかっています。子供たちにできるだけ分かりやすい言葉で、できるだけ視野を広く持てる環境で、できるだけ実体験を伴うカタチで、私たち大人は子供たちに伝えていかなければなりません。河森さんも、今その一点を重要視しています。
「私たちは必死になってリレーをしていく必要があります。これ以上自然を破壊せず、次の世代につなげること。それが私たちの責務です」。
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販売元:バンダイビジュアル
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©2001 アルジュナ製作委員会
CATEGORY : COLUMN